注意:すべて私の個人的な見解です。原作者とも映画公式とも出版社とも何の関係もありません。
「先輩」
- 不眠症(映画「ファイトクラブ」のオマージュ?)
- 原作の" 私"が"先輩"に会うのは黒服よりずっと前。
- 面接(集団)で聞かれる内容が少し違う。
- 美人なのは一緒。
- ダストボックスに入っている"私"を庇うために「弟」と言う。(顔が全然似ていないと"私"から指摘)"私"にも姉がいる。(原作の"私"には容姿コンプレックスがあるのかも)
- 「かくれんぼ同好会」のイベントに「悪戯」がある。
- すこしあざとくて、隙もあって、話も合わせてくれて、原作の"先輩"は、"私"にとっての「理想の女性」あるいは「イマジナリーフレンド」なのかも。
- 原作ではキラキラなインスタ女子だけど、映画の"先輩"はノートに気持ちを書いたり、アナログっぽいよね。
- 映画版は、度を越したいたずらに"私"が関わっているのを薄々感じていて探りを入れたりするけど、原作ではそんな様子は見られない気がする。
- "先輩"と"私"、二人で東京タワーデートする。
- 最後の"私"の"先輩"に対するセリフ、一部分、大切なところが変わっていて、映画全体に対する印象が変わっているので、原作を読んで確かめてほしい。
「黒服」
- 原作では屋台のラーメンを食べたり、庶民的というか親しみやすいかも?
- 原作ではアジトの「映画館」は"黒服"と"私"の二人で作りあげたもの。
- 「悪戯」も虐げられた常連から見ると、ある意味「スカッとジャパン」的な意味もあるんだよね。"黒服"の考える「正義」なのかもしれない。
- "私"の二重人格(走るシーンとか一部匂わせているけど)というより、いわゆる「ネット人格」だと私は思う。そうじゃないと、"私"の顔を知ってる"佐藤"が黒服に心酔して"常連"になる説明がつかないので。ただ、2018年の小説発表当時より時代が追いついてしまっている気がする。SNSでいるよね、お金配る人。(「猫」のポラロイドはSNSのアイコンだよね)(だからポラロイドが配られた時点で「猫」がいなくなってしまったんだね😢)←原作では最後まで出てくる猫。
-
「真夜中乙女戦争」は東京だけでなく、全国に広がっている。
- 「(真夜中乙女戦争を)決行するか中止にするか早く決めろ」と"私"に言う。
- イマジナリーフレンド的な"黒服"と違って、映画版はひとりの別の人として描かれていたのが好きだった。
- 原作では「黒服」=「東京タワー」?。東京タワーを壊したい"黒服"と壊したくない"私"。
- 黒服の最後が全然違うので、こちらも原作読んで確かめてほしい。
「私」
- 原作の実家は映画ほど経済的に困窮していないように思える。本人は貧乏だけど(中高私立高校→東京の私大)(コロナ禍を反映しているのかも)
- モノローグは標準語だが、口に出すセリフは関西弁。"先輩"や"黒服"といる時も。
- とにかくよく喋る。映画冒頭くらいずっと喋ってる。
- 佐藤(佐野くんの役)は、"私"のことを友達と思ってくれている。佐藤くんは佐藤くんで良いところもあるひと。
- (友達と知り合いの境目ってどこだろうね)
- 原作はウザくて友達ができない(個人的な感想です)。映画は傷つくのが怖くて友達ができない。(コロナ禍で自宅に引きこまらなきゃならない現実の大学生を反映してる?)
- 一度やらかしたら無かったことにはできないSNSを反映しているのかも。(佐藤くんの友達(小島くんとか)のコイツに関わりたくない雰囲気が2回目以後見ると分かるね)
- 「普段あまり喋らないから、家庭教師のイメトレする」映画版の"私"…どこまで真面目で可愛いの………
- 繊細で傷つきやすくて、傷つかないようにしてる"私"。先輩みたいに上手くやれれば良いんだろうけど、できなくてもがいている無数の"私"が世の中にいると思う。
- 「絶望」はしてるけど、「諦めていない」んだよね。「絶望」は「光」になるって分かる。生きていればなんとかなることもある。
「MISTY」
- 作者のFさんが恋愛小説を書いてほしいと言われて「真夜中乙女戦争」を書いたと文庫版あとがきに載ってたけど、やっぱり恋愛小説、恋愛映画なんだと思う。
- "私"は"先輩"にも"黒服"にも恋をしていて、でも、「本命」は"先輩"で。"先輩"も"私"に恋をしているけど、「本命」の彼氏は別にいて苦しんでいる。"黒服"は"私"に恋をしていて、"私"の望むものを何でも与えてくれる。けれど、"私"の「本命」にはなりえないから復讐するって切ない。
- 友達がいっぱいいても、本当に心を許している「親友」は「カナ」しかいなさそうな映画版"先輩"の孤独。何でも言うことを聞く信望者に囲まれながらも"私"だけに執着する"黒服"の孤独。友達もいない、誰かと話をすることすらほとんどない"私"の孤独。
- 原作の"私"は「真夜中乙女戦争」に積極的に関わっていて、"先輩"や"私"が悪戯のリストに上がってきて初めて狼狽えるけど、映画は"私"の知らないところで計画が進んでいく。(爆弾を作っているのを見て見ぬふりしてるけど)
- "私"の二重人格でもイマジナリーフレンドにもしなかった映画版"黒服"と"先輩"。個別の存在としたことで、"黒服"にも"先輩"にもそれぞれの「正義」「生きづらさ」があるのを描いてくれたのは良かったと思う。
- 映画の"黒服"は"私"に責任を負わせたくなかったのかも。"田中"に全責任を追わせるくらい簡単。殉教するだろう田中さんも満足そうなところがカルト的で怖い。
- 万が一、"私"が生き残るとしたら、劇中では描かれなかった、"先輩"と一緒に「東京タワー」に行ける未来があるかも。生きているってことは、それだけでやり直しもできるし、希望なんだよ。
- 全体的にコロナ禍を反映しているのかな。行きたいところにも行けない、会いたいひとにも会えない。みんな、お金も無い。社会の価値観もひっくり返った時代にこそ観るべき映画なんじゃないかな。
題名の「降りられなくなった猫」は"先輩"が"私"に向かって歌う「Misty」のFさん意訳よりいただきました。"私"、"黒服"、"先輩"それぞれの正義も生き方もあり、愛情もあって行き着いてしまった結果が「最悪のハッピーエンド」でも、「最高のバッドエンド」でもあると思う。